家庭

本当なら言う必要のないことを強いて言うんですが、夫婦の道とか言いますけれども、本来人間社会の根幹であるはずの家族の調和とか家庭生活というものに、伝統的なスピリチュアリティはほとんど触れて来なかったという、笑うに笑えない冗談のような歴史を辿って来ているわけです。そもそも僧侶や聖職者が独身なんじゃ夫婦の道なんか説きようもありませんが、人間としての基盤を足枷として放棄した上で悟りや救済を求めたから、当然現世否定型の教えになり、個人が悟りや救済を得られたとしても次の世代に引き継いで行く要素が何もないんですから、見ての通り世界は根本的には良くならなかったわけです。親が年収やキャリアを追求して、自分でご飯も作らないし自分で子供も育てないとなれば、家庭生活そのものがないことになり、そのまま行けば未来が良くなる理由がないことになりますが、スピリチュアリティもこのままで行けば良くなる通理がないのではないでしょうか。幸いにして夫婦の道を説くティーチャーさんは、数は少ないですがいらっしゃいます。これがまた「家庭の平和が世界の平和」などという大乗的な理想論を掲げ、それを説いている人の家庭は実はめちゃくちゃ、みたいな事例も出て来たりします。説く人が具体的な方法を示して自分で実践して見せなきゃ意味がありません。とはいえ、夫婦の道や家庭生活を話題にすらしないような教えは、あくまで私の意見でしかありませんが、これからの時代には必要ないだろうと思います。

再設定

普通に生きていたら人生をやり直したい気持ちになることって滅多にないんじゃないかなと思うんです。それまでの価値観が壊れるような相当ショックな出来事があった時くらいではないでしょうか。ところがスピリチュアルな道にいると、これまで目標にして来たことが全然意味を成さなくなったり、一番大切にして来たものがどうでもよくなったりする転機が、二度三度と言わず訪れるのが普通だと思います。その都度何のために生きるのかを再設定する必要に駆られるという訳で、その選択次第ではもちろん変な方向に逸れてしまうことも起こるから、油断できないのです。「失敗は成功の母」と言いますが、逸れたら逸れたでそこで重要なことを学ぶんだからそれでいいと教えるティーチャーさんもいらっしゃって、それはそうかも知れません。で何を基準に人生を再設定するかと言いますと、新しい本を読んだり新しいティーチャーさんの話を聞いたりすることで、新しい価値観を仕入れるということが多いのではないでしょうか。難民と称されることがあるように、何が正しいのか分からずあっちこっち渡り歩くことになりそうです。自分にとって何が正しいのかを正しく教えてくれる師に巡り合うことは稀です。ならば自分の本心に聞けとか良心の声に耳を傾けてとか言いますが、日本語には真心という良い言葉がありますので、これがいいとあいのほしでは考えております。本心とは良心とはと言うと、哲学的に意味を定義する必要がやや感じられますが、真心という響きには、言霊と言っていいのかどうか分かりませんが、感覚的な意味がそこにあるように思われます。そこの本質に少しずつでも近づくようにすれば、人生を再設定する際の標準として間違いないということだと思います。

覚悟

昔の時代みたいにスピリチュアルの道に入るなら決死の覚悟が必要だとは思わないんですが、今の時代でもある程度の覚悟はしなければいけないというのが私の意見であります。何を覚悟するのかと言いますと、周囲の理解がいつまでも得られなかったり、そう易々とは思う通りの結果にならない可能性もあるということをです。もちろん思いがけず悟りが得られて、自然な流れで経済的にも成功する方はいらっしゃいます。精神面と物質面が両方良くなるのがスピリチュアリティの本来の姿であって、どちらか一方を選べとする教えを私はいいと思わないのであります。ところが結局、個人のいわゆる過去世や遺伝をなかったことに出来ないのですから、かなり頑張ったにも関わらず、精神面でも経済面でも期待していたような成果が出ないまま終わることも往々にしてあるわけです。スピリチュアルな人生を選んだことを後悔しないにはどうしたらいいのでしょうか。それは人生の焦点が精神的に成長するとか身魂を磨くというような目的にしっかり定まっているかどうかに懸かっています。言うのは簡単、この社会で実行するのは難しい、結果を出せない状況ならなおさら困難というわけで、いわゆる「誠一筋」とか「真心」という言葉に集約される元の元の生き方にその都度戻って来られるかどうかだと思います。真心で生きるなら余計な知識は必要ないし、そうでないならどんな知識も意味を成さないということであります。

自分軸

自分軸という言葉が使われるようになっていますけれども、これはワガママとか自分勝手というよりも「自分の人生は自分で決める」というようなニュアンスがありまして、欧米ではフランス革命以来、集団社会や階級的政治的圧力に人生が翻弄されることを良しとしない基本理念として大切にされていると思います。ところがどっこい、日本人に限らず、自分で決めると言っても、また自分がやりたいことをやると言っても、実はそのすべてが誰かに認められたいがためにやっている場合があるものです。文字通り何をどうやっても親兄姉が褒めてくれない・認めてくれない家庭環境で育つと、大人になってもいつか認めてもらえる日が来るのを心の奥底で期待する気持ちが残り、虚しい努力であるにも関わらず人生すべてをその目的のために捧げる生き方になる場合があります。機能不全家族とか共依存とかアダルトチルドレンという言葉がある通り、そういう人はかなりいて、本人にその自覚がないのが普通だと思います。自分では自分軸で生きているくらいに思っているかも知れません。学校にしても職業にしても結婚にしても、親兄姉に認めさせたい一心(他人軸)で決めているのに、それが例えばミュージシャンや俳優として、自分の好きに生きていると思い込んでいたりします。その逆に、傍から見れば自分を捨てて世のため人のためのみに生きているような人が、実はそのすべてを自分で決めているという場合もあり得ます。精神世界には自我欲望を捨てろという教えが多いですが、まずは自分を尊重することを学ぶ必要があるというのが私の意見です。

自分の頭で考える

自分の頭で考えるのが大事というのはよく言われていることかも知れませんが、あいのほしも同意見です。「考えるのを止めてこれを信じなさい」という精神世界でのやり取りには非常にマズイものを感じるのでご注意ください。で、何をどうすれば自分の頭で考えていると言えるのかについて私の考えを述べる必要があるかと思いますので、いつもの通り参考程度に聞いてください。昔のギリシャには自分の頭で考えさせるためのメソッドと言いますか教育法があったようでして(ソクラテス式問答法)、今の欧米の大学は概ねその伝統を受け継いでいると言えそうです。ある話題について議論しようとする時に、まず一般的な問題提起を仮に立て、それに対する仮の答えを三つくらい考え、その答えの理由や根拠を展開した後、今度はそれに反対する仮の答えを立て、その理由や根拠を検討し、最終的により吟味された仮の結論に到達して締めくくる、みたいなやり方です。なんだか知的な作業みたく聞こえますが、西洋における教養の語源になっている cultura というラテン語は、畑を耕す、つまり体を動かすという意味である通り、体を使うことによって得られる、要するに「知識+経験=教養」ということなので、単に理屈だけで導き出した答えは本当の答えではないのです。教育で出来るのはあくまで論理的に考える訓練であって、仮ではない本物の問題提起は人生経験から内発的に出るものであり、そこからが本当に自分の頭で考えることであると言えるでしょう。欧米のエリートはそれが分かっていて積極的にいろんな経験を積もうとする傾向があるように見受けられます。学問の世界では論理的な訓練を踏まない人は認められないし、自分の頭で考える学者さんは学会から孤立する可能性があり、いろいろと難しい世の中だなと思います。スピリチュアルな世界もまったく同じであり、自分の人生経験の中から自発的に湧いて出る疑問からスタートするのが本来のあり方です。ところがいろんな理由からそうではないのが普通であり、自分の頭で考える人は他の人たちから遅れを取っているように感じるものです。途中までは確かにそうなのですが、最終的には違います。何事も始めが肝心と言いますが、自分の動機や目的が正当なものであるか、時折自分でチェックすることが大事だと思います。

強さ・賢さ・綺麗さ

性質としての神様を表す「真・善・美」という言葉が宗教界ではよく語られますが、これが人間界ではいわゆる本当の愛や正しい行いや「和を以て貴しと為す」の精神として現れるなどとされます。ところが現実社会では高い理想を貫き通すことは難しく、目指したとしても「正直者が馬鹿を見る」結果になるに違いない、と考えられているのはみなさんもよくご存じの通りです。人間を肉体だけの存在と思い込んだところに諸悪の根源がある、とは大方の宗教で一致する見解かと思いますが、人間社会を有利に運ぶことを目的に、あくまで人間界でのみ通用する真善美の下位互換バージョンが多くの人によって考案されるに至ったと言えましょう。あくまで仮の喩えですが、真善美に対して「強さ・賢さ・綺麗さ」がこの世で成功するための最強の条件である、と多くの成功哲学が一致して説いているのではないでしょうか。そこに神秘学で言うところのいわゆる幽界の生物からの助力を当て込むオカルト要素を加える場合もあるでしょう。強くて賢くて綺麗な人はまず間違いなく成功できる、とはほとんどの人が同意するところでしょうし、事実その通りです。しかし肉体のみに基盤を置く弱肉強食的なやり方なので、この路線で行くとこの世は早晩滅んでしまうというところが問題なわけです。どんなものにも存在している限り真善美の片鱗は含まれているものなので、自己利益や自己中心性を限界まで極めた人がひっくり返って上昇したという前例は過去にはあったように思われますが、私たち全員がそのやり方で行く余裕はもうない、というのが実情かも知れません。

引きこもり

引きこもってしまう原因って、すごく大雑把に言ったら自己否定の気持ちなんではないかなと思うんです。専門家ではないので的外れだったらごめんなさい。引きこもりの引き金になった事情は人それぞれ違うでしょうが、明らかに家庭環境がとか学校や職場で何かあったというような特定し易い場合もあれば、生まれつき自己否定の傾向があったとしか考えられない場合もあるでしょう。前者は環境が改善されれば回復の見込みがあるというわけで、周囲の努力次第できっかけを作り出せる希望がありますが、後者はいわゆる先祖や前世の生き方に起因していると考えられるため、周囲が努力すればするほど本人は自己否定を深めてしまい、終いには回復不可能な状態にまで追い込んでしまう可能性もあります。回復のきっかけになり得るのはそれこそ愛の奇跡(オリジナル・ラブ「月の裏で会いましょう」)だけという話になりかねません。引きこもりの程度が重い人ほどいわゆる繊細さん (Highly Sensitive Person) の傾向があるだろうと考えますと、引きこもりにはスピリチュアルな要素があると言って言えなくもないのでしょうが、引きこもる人は必ずスピリチュアルだとまでは言えませんし、私が思うのは、回復のきっかけがスピリチュアルな内容であって欲しいということです。単なる理想論になっちゃいますが、自分の中にある自己否定の気持ちを見つめそれを変えることが出来た人や、もう一度生きてみたいと思わせてくれるような立派な生き方をしている人との出会いが回復のきっかけになって欲しいと思います。自己否定の根本原因は本当の自分を知らないことにあるので、他のすべての人生経験と共に霊的に成長する方向に持って行く必要があるということです。

まやかし

まやかしと言ったら、言葉巧みな売り文句で期待を煽るけれども中身があんまりないとか、最悪の場合嘘である、というようなものを指すと思うんですが、スピリチュアリティというのは基本的に目に見えないものを取り扱っている以上、まやかしと本物を区別するのに何年もかかるのが普通ではないでしょうか。しかも、具体的に何かに成功するといった結果が伴った場合でも、努力して自分が何者かに「なる」とか新しい要素が加わってパワーアップするというようなことは、心理学などで言う「アイデンティティの確立」や「自己実現」の範疇であり、人にもよりますがスピリチュアリティ本来の方向性を妨げてしまう可能性もあります。と言いますのも、スピリチュアリティで「本質」と言ったら、生まれる前からある性質を意味します。それが不変のものかどうかは哲学の議論になりますが、ともかくそれに「なる」ための努力は必要ありません。問題は自分がそれだと思ってないことだけです。で、あいのほしの解釈をお話ししますと、あなたの本質は何かをやりたくて、その目的のために作り出されたペルソナと言いますか仮面を着けて生まれて来ているわけです。仮面と言いましても、生年月日やどこの誰として生まれたというような刻印のことでありまして、今の常識では生きている間に取り外すことは出来ないものです。やりたいと思っている役割を演じるために始めからペルソナを与えられている上に、さらに輪を掛けてあなたはあれだこれだと定義を付け加えて行ったら、それが外面的な定義であろうが内面的な定義であろうが、本質にとっては邪魔になってしまいます。ペルソナとしての自分を強化する動機になる付け足しはすべてこだわりであり、本質の意志を素直に実行しようとする上での妨げになるということでございます。生まれる前からある本質があなたなのだとしたら、スピリチュアル的に自己を完成させるための定義もすべてまやかしなのかも知れない、という話になって参ります。誤解のないように付け加えますと、本質の意志を実行するとは、関わる人全員を幸せにする生き方のことです。

正しい生き方

正しく生きるという考えは特に伝統宗教では重要視されていまして、正しく生きるための道標にならなかったら一体何のための宗教なのか、と一般的に多くの人が考えていると思います。ところがよく考えてみますと、私たち全員が基本的に「自分は正しい」と思って生きており、正しいと思っている中身が何であれ、人生はおおむねその通りに展開する傾向がございます。「すべてあなたが正しい」というのが現実であり、だからこそ問題なのです。正しいのと幸せは別物だからです。そこで私などはスピリチュアルな情報を参考にしようと考えるわけですが、誰の影響でどういう生き方をしようが、結果に対して責任を取ってくれる人は誰もいないということは、厳重に気をつけるべき点だと思うんです。一人一人がよく考えて生き方を決めなければなりません。というわけでスピリチュアルな情報に触れる際に常に念頭に置くべきポイントをおさらいしますと

  1. 何が言いたいのか
  2. 最終目的は何なのか
  3. 具体的な方法はあるのか
  4. 言っている本人がその通りの生き方をしているか

の四点になります。もちろん私の話も含めて、そんなような着眼点を踏まえた上で批判的に聞くようにしますと、理想を言えば間違いはだいぶ減るんじゃなかろうかと思います。この話はこれからもしつこいくらい繰り返すことになるかも知れません。

スピリチュアルの学び方

そもそもスピリチュアリティを「学ぶ」という姿勢で始める人は少ないかも知れません。生まれつき深い信仰心がある人は、スピリチュアリティの本質を最初から分かっているので、誰に教えられなくても自分に一番合う道を見つけて突き進んで行くものです。それなら何の問題もないのですが、そういうケースは稀であって、ほとんどの場合、自分の興味と必要性に合致する教えに自然と引き寄せられるものだと思います。例えば普通は見えないものが見え聞こえないものが聞こえる人は、霊能や超能力開発の方向に行くのが当たり前ですし、特殊な感性を持ちいわゆる変わり者扱いをされて生き辛さを感じている人は、「そんなあなたにも価値がある」と認めてくれる教えに安心したりもしますし、社会的に成功体験をしている人は、願望実現的な教えが「自分の成功をうまく説明してくれている」と感じ満足したりもします。それの何が問題だと思うのかと言いますと、結局何が目的なのかがハッキリしないまま年月が過ぎ去ってゆき、周囲の人間から「あの人はすごく変わった、立派になった」と評されることもないまま「スピリチュアルが趣味」の人生で終わってしまうきらいがある点であります。一般的な大学の教育課程では、出来る限り幅広い分野を概観した上で、だんだんと自分の専門を狭めて行くのが良いとされていると思います。いきなり専門だけやると、良い研究に必要な視野が得られないからではないでしょうか。スピリチュアリティでも同じようなことは言えまして、伝統宗教や成功法則やヒーリングなど幅広い分野を選り好みせずにちょこっとずつ学ぶことによって、理想を言えば「スピリチュアリティの目的はこういうことなんじゃないか」というのが自分なりに見えて来ると思います。そうなれば自分に合う道を自分で判断できるようになるんじゃないでしょうか。

資本主義とスピリチュアル

のちの時代になって今のスピリチュアル業界を振り返ると、いかにも資本主義的な内容が大部分を占めていたと評されるに違いありません。人間は霊的な存在であるというのがスピリチュアリティの大前提ですが、その教えは生身の人間が説くものであり、その人が生きている時代の色づけがなされることは至極当然と言えます。霊性の高さのみを語れば物質世界の存在意義はないことになり、この世での繁栄のみを語れば霊性はないことになります。この世を大調和世界に持って行くためには精神性と物質性の両方を理解する必要があるため、スピリチュアルティーチャーさんというものは本来的にダブルスタンダードで生きているように見えるのが当たり前なんであります。スピリチュアルな教えそのものは本質的に収入を得るための手段ではないのですが、スピリチュアルティーチャーさんも人間として生きて行かなければ活動が出来ません。が、往々にしてそれが行き過ぎてしまうようです。本格的な経済哲学が分からないのでごく初歩的な話になって申し訳ありませんが、資本主義社会の枠組みの中で勝ち組と言ったら、働かないであるいは自分の好きなことだけをして豊かで健康で文化的な生活を送れる人だと思うんです。(その生活を手に入れるためにしたかも知れない)権力闘争の話はここでは除外します。で、資本主義社会の中で成功しているように見える、要するに生活に余裕があるように見えるティーチャーさんというのが、今のスピリチュアル業界の一つのアイコンになっているようです。すると、楽して豊かな生活をしたいがためにその仕事をやっているように、終いには見えてしまう場合もあります。現実問題として、お金に困っているように見えるティーチャーさんの話なんか誰も聞きたがらないし信用しない、という理由もその背後にあります。いずれにせよ、この業界は(政治と同じくらい)本来の目的を簡単に見失ってしまいやすい環境にあると言えるでしょう。

わだかまり

一般の人にスピリチュアルの基本は何かと聞かれた時に「心のわだかまりを解くことです」と答えたら一番分かり易いかも知れないです。何故かは別として、わだかまっていることって誰にでもあると思うんです。心が何かを掴んでいるってそれだけでストレスなんですが、それが自覚できない場合も多くあるでしょう。だけど、心がスッキリすれば楽だろうということは誰でも想像できるのではないでしょうか。わだかまってしまう原因はいくつもあるとは思うんですが、大きいのは「自分の望み通りの結果が得られないこと」であり「他人が自分の望み通りに動いてくれないこと」だと思います。一つには、自分が思った通りの結果になり、他人が思った通りに動いてくれれば、わだかまりは解消されるのではないでしょうか。でもよく言われている通り、この方法では恒久的な解決にはならないわけです。生きている限り思い通りにならないことなんて次々と出て来るからです。そこで「望むことをやめる」という哲学が登場して参りますし、それもそうかも知れません。しかしながら私が思うに、多くの人が見落としているのが「人生の目的を正しく設定すれば、たとえ物質的な環境が思い通りにならなくてもわだかまりは残らない」という事実です。つまり「みんなの幸せを願う心を作り上げること」を目標とし、人生はそのための訓練の場なんだと信じることが出来れば、何が起ころうと起こるまいと有り難い経験と思える余地が生まれるというわけで、これはスピリチュアルの極意に相当する部分でございます。

極端と拒絶

極端なことを言う人って嫌がられるか面白がられるかのどっちかだと思うんですが、スピリチュアルってとかく極端な話が多いわけです。哲学の議論としては極論を持ち出す方が切れ味が鋭い訳で、悟り系では「始めからあなたはいない」とか「意味なんてない」といった話であったり、願望実現系では「一週間以内に大金が入る」とか「三日以内に恋人と結ばれる」といった話が多用されます。そういう風潮に対して私がとやかく言う資格はないのですが、一つ気になるのは、極端なことを主張しているティーチャーさんの心の中には、何かへの強い拒絶の気持ちが根底にあるように見受けられることです。あるティーチャーさんが他のティーチャーさんを揶揄したりそれとなく侮辱したり、果ては両者が実際に言い争ったりする場面に出くわすこともあります。これがかつては宗教戦争にまで発展した心の動きなんだろうと思います。何のための宗教活動なのかが見失われている、という笑うに笑えない状況が今日まで続いて来たわけです。伝統宗教の文脈の中では、我欲に溺れる人間の言い訳を一刀両断にする教えというのは長い目に見れば真実と言えるのですが、長期的な目で見た正しさとティーチャーさんが取る態度は分けて考える必要があります。スピリチュアルな教えというのは考えではなくそのティーチャーさんがどういう生き方をしているかにあるので、考えだけが一人歩きしている場合には、それこそ極端に言えば政治思想に分類するべきではないでしょうか。ものすごく頭のいい人以外は理解できない複雑な教義を持つ道よりは、誰にでも理解できる簡単な実践方法を持つ道の方がいい、とあいのほしでは考えております。