宗教と政治

政教分離というのはヨーロッパの歴史の中から出て来たと思うんですが、現実はどうかは別として、日本でも一応採用されていると言えそうです。宗教家が政治にあんまり口出しするべきじゃないという一般常識がありますが、理想を言えばそうだとも思えます。しかしながら日本の元の姿は祭政一致だと言われており、人間社会がどの方向に進むべきかという考えがすべての根本に来るという点では、政治も宗教もまったく同じであると言わざるを得ないでしょう。宗教が積極的に政治に介入するべきかどうかはまったく別問題として、宗教家が政治に無知だったり、どんな状況下でも無関心を公言するようだとこれまた困ります。例えば、自分の国が戦争状態に突入してしまったにも関わらず立場を明確にせず、現実味のない心の平安を口にするだけに終始するような宗教家は、残念ながら人を導いて行く資質に欠けていることになるでしょう。無関係を装う傍観者ではなく、戦争になる前に具体的な手を尽くす、なってしまったら平和へのビジョンと道すじを明確に指し示す人こそ、真の宗教家にふさわしいのではないでしょうか。そしてこれは真の政治家に求められる資質とまったく同じと言えるわけです。政治と宗教を分けて考えることも必要ですが、目的は同じと考えることもまた必要ではないでしょうか。ただし、信仰を押しつける行為や制度があってはいけないと思います。

家庭

本当なら言う必要のないことを強いて言うんですが、夫婦の道とか言いますけれども、本来人間社会の根幹であるはずの家族の調和とか家庭生活というものに、伝統的なスピリチュアリティはほとんど触れて来なかったという、笑うに笑えない冗談のような歴史を辿って来ているわけです。そもそも僧侶や聖職者が独身なんじゃ夫婦の道なんか説きようもありませんが、人間としての基盤を足枷として放棄した上で悟りや救済を求めたから、当然現世否定型の教えになり、個人が悟りや救済を得られたとしても次の世代に引き継いで行く要素が何もないんですから、見ての通り世界は根本的には良くならなかったわけです。親が年収やキャリアを追求して、自分でご飯も作らないし自分で子供も育てないとなれば、家庭生活そのものがないことになり、そのまま行けば未来が良くなる理由がないことになりますが、スピリチュアリティもこのままで行けば良くなる通理がないのではないでしょうか。幸いにして夫婦の道を説くティーチャーさんは、数は少ないですがいらっしゃいます。これがまた「家庭の平和が世界の平和」などという大乗的な理想論を掲げ、それを説いている本人の家庭は実はめちゃくちゃ、みたいな事例も出て来たりします。説く人が具体的な方法を示して自分で実践して見せなきゃ意味がありません。とはいえ、夫婦の道や家庭生活を話題にすらしないような教えは、あくまで私の意見でしかありませんが、これからの時代には必要ないだろうと思います。

再設定

普通に生きていたら人生をやり直したい気持ちになることって滅多にないんじゃないかなと思うんです。それまでの価値観が壊れるような相当ショックな出来事があった時くらいではないでしょうか。ところがスピリチュアルな道にいると、これまで目標にして来たことが全然意味を成さなくなったり、一番大切にして来たものがどうでもよくなったりする転機が、二度三度と言わず訪れるのが普通だと思います。その都度何のために生きるのかを再設定する必要に駆られるという訳で、その選択次第ではもちろん変な方向に逸れてしまうことも起こるから、油断できないのです。「失敗は成功の母」と言いますが、逸れたら逸れたでそこで重要なことを学ぶんだからそれでいいと教えるティーチャーさんもいらっしゃって、それはそうかも知れません。で何を基準に人生を再設定するかと言いますと、新しい本を読んだり新しいティーチャーさんの話を聞いたりすることで、新しい価値観を仕入れるということが多いのではないでしょうか。難民と称されることがあるように、何が正しいのか分からずあっちこっち渡り歩くことになりそうです。自分にとって何が正しいのかを正しく教えてくれる師に巡り合うことは稀です。ならば自分の本心に聞けとか良心の声に耳を傾けてとか言いますが、日本語には真心という良い言葉がありますので、これがいいとあいのほしでは考えております。本心とは良心とはと言うと、哲学的に意味を定義する必要がやや感じられますが、真心という響きには、言霊と言っていいのかどうか分かりませんが、感覚的な意味がそこにあるように思われます。そこの本質に少しずつでも近づくようにすれば、人生を再設定する際の標準として間違いないということだと思います。

覚悟

昔の時代みたいにスピリチュアルの道に入るなら決死の覚悟が必要だとは思わないんですが、今の時代でもある程度の覚悟はしなければいけないというのが私の意見であります。何を覚悟するのかと言いますと、周囲の理解がいつまでも得られなかったり、そう易々とは思う通りの結果にならない可能性もあるということをです。もちろん思いがけず悟りが得られて、自然な流れで経済的にも成功する方はいらっしゃいます。精神面と物質面が両方良くなるのがスピリチュアリティの本来の姿であって、どちらか一方を選べとする教えを私はいいと思わないのであります。ところが結局、個人のいわゆる過去世や遺伝をなかったことに出来ないのですから、かなり頑張ったにも関わらず、精神面でも経済面でも期待していたような成果が出ないまま終わることも往々にしてあるわけです。スピリチュアルな人生を選んだことを後悔しないにはどうしたらいいのでしょうか。それは人生の焦点が精神的に成長するとか身魂を磨くというような目的にしっかり定まっているかどうかに懸かっています。言うのは簡単、この社会で実行するのは難しい、結果を出せない状況ならなおさら困難というわけで、いわゆる「誠一筋」とか「真心」という言葉に集約される元の元の生き方にその都度戻って来られるかどうかだと思います。真心で生きるなら余計な知識は必要ないし、そうでないならどんな知識も意味を成さないということであります。