人と比べない方が幸せだというのは確かにその通りだと感じるんですが、人と比べるのが良くないとか、比べてはいけないという戒律にしてしまうと窮屈だとも思います。人間の競争意識というのは本能的に備わっているんじゃないかと疑ってしまうほど根深いものでして、世界平和を実現するために私たちが克服すべき何かの正体なのかも知れません。競争というものを完全否定すれば、自己完結型の悟りの教えに至り、そこに人間関係における成長可能性の入り込む余地はありません。比べるからこそお互いに切磋琢磨して努力できる面があると言えます。ところで私が思うに人間の努力には二色ありまして、一つはもちろん自分の得意なことと言いますか、長所を伸ばして行く努力です。個性を磨き出すことで結果的に世の中に貢献することになる、順当な方向性だと思います。もう一つは、他人と比べることから来る劣等感から、誰かの何かに自分を偽装することによって、手っ取り早く欲しい結果を得ようとする努力です。例えば、学歴や経歴を詐称して生きて行くことも一つの努力ではあるわけです。しかしたとえ望む結果が得られたとしても、結局は自分の実力が身に付かないことは、すべて無駄な努力だと思います。真っ当な努力をすれば必ずこの世的な成功が得られるとは限らないところが、脇道に逸れる人が出る根本理由なのでしょう。それでも真っ当な努力をし続けられる人というのは、それだけでかなり出来た人だと言えると思います。
年: 2026年
虚勢を張る
自分を実際よりも強く大きく美しく見せようと頑張る動物がいるように、人間がより洗練された方法で虚勢を張ることも、本能的に備わった性質なのかも知れません。いわゆる自分の実力とは関係ないような外側の価値を自分のものと主張することによって相手を感心させようとすることが、虚勢を張るの意味かと思うんですが、この行動様式は子供の頃に定着する場合が多いんじゃないかと思うんです。知らないことを知っているフリをしたり、出来ないことを出来ると嘘をついたりといった些細な行動が始まりかも知れません。ハイブランドの服を学校に着て行ったり、親の地位を自慢するといったあからさまな行動かも知れません。で、運悪くそれが功を奏して、友達から感心されたり一目置かれるといった成功体験を一度でもしてしまうと、大人になっても、いや本人が途中で自覚しない限り一生、その行動様式を維持し続けることになると思います。それはやっぱり不幸なことと言うべきではないでしょうか。一方、子供の頃に自分の努力で成した何かを周りの大人に褒められる経験が出来た人は幸運です。やる気が出て自分の才能をどんどん伸ばして行く方向性になり易いし、大人になっても何らかの実力で認められる人生になると思います。考えてみれば、私たちが誰かを褒めるその褒め方が問題で、例えば「かわいいね」「イケメンだね」「いいバッグ持ってるね」「いい車乗ってるね」といった、その人が努力して身に付けた実力とは何の関係もない、容姿や財力だけを対象とする悪気のない褒め言葉、あるいはそのような発信への何気ない「いいね」ボタンが繰り返されることによって、この社会のルッキズムや拝金主義に無自覚なまま付和雷同する意味になってしまいます。容姿や財力のみが評価の対象になる風潮をエスカレートさせたくないとしたら、私たちは人のどこを褒めるべきかという点をもっと自覚し始めないといけないと思います。
敗北宣言
「正々堂々」とか「潔さ」といった価値観が評価されない世界的な風潮といいますか、一体何の得があるのとか、ともすれば全然意味が分からないとまで言われる時代になっているのかも知れません。事実、正々堂々と勝負して負けるよりは、ルールを無視してでも勝つ方がいいに決まっているという行動が、これまで以上に目立って来ているように見受けられます。ところがスピリチュアル的に見ますと、勝ちという結果にこだわり続ければ続けるほど、人生の次のステージに進むことが出来ず停滞すると言えると思います。多くの人が人生で負けを経験します。武道やスポーツの世界ではよく言われることだと思いますが、正々堂々全力で戦って負けたならば、自分の限界を知ることも出来るし、何より潔く負けを認める清々しさを知ることが出来ます。自己の成長があり、そこからスッキリとした心持ちで次のステージに向かうことが可能になるわけです。勝ちという結果だけにこだわる場合、自分を有利にするためにルールを破ることを考えたり、それでも負けたらいつまでも諦め切れないという状態に、絶対にそうだとまでは言いませんがなると思います。もちろんそこに心の成長は期待できません。スピリチュアル業界ですべてが魔法のように上手く行くことを諦め切れないというのも、同じような構図ではないかなと思うんです。アメリカの大統領選挙に「敗北宣言」というものがあるそうですが、これは負けた側の候補者が自分の負けを認めて、相手候補の勝利を讃える演説をすることらしいです。負けを認めることの価値を分かっているからこその文化だと思います。
現実逃避
スピリチュアルと言うと現実逃避というイメージを持つ人も多いんじゃないでしょうか。それもそのはず、この業界には実際に「どこからともなく大金が振り込まれる」とか「どこからともなく理想の恋人が現れる」とかの文字が踊り、奇跡の人生大逆転勝利を信じたい気持ちが強ければ強いほど、まさに現実逃避そのものになり得ます。遊びで身を持ち崩すのとまったく同じ道理なので、深みに嵌まりそうな自覚があるのなら、スピリチュアルはそれこそ「非日常を楽しむ場」として節度を保つように心掛けるのが良いかと思われます。ところが地道なスピリチュアルで重要とされる、自分の内面を深く見詰める内省や内観と呼ばれる作業も、周りから見れば一緒くたに現実逃避と見做されてしまいます。家庭や仕事が疎かになるからそのように見られるわけですが、確かに自分の内面をあまりに見詰め過ぎてしまうと、極端な話、現実生活というものにまったく興味を持てなくなる場合もあります。自分が何を考えているのかを知ることは大切ですが、特に自分の悪いところにばかり注目していますと、人生そのものが消極性に傾いてしまい、現実逃避と言われても仕方ない状態に陥ってしまいます。私たちは現実を生きている人間でもありますから、バランスを取るということが常に大事です。心の糧を求めることは何よりも大事ですが、それによって生きられなくなるとしたら問題です。しかも、これは私の意見ですが、結果的に周囲の人から「人間的に成長した」とか「立派になった」と評価してもらえる方向にならなければ意味がないと思います。若気の至りで少しぐらいバランスを崩すのも経験のうちですが、それがそのままにならないように注意しなければいけません。他方、「神聖な光を見た」とか「自分の本体を悟った」ということで慢心してしまうのは、また別の問題でございます。